「丸友鮮魚のあゆみ」
地元のお客様への販売が主体の行商の鮮魚店を営む当店は、曾祖母の代から創業約60年。
間人漁港の仲買人として、競りに立ち、自ら魚を目利きし買い付け、調理加工し既存のお客様の元へ売りに行く。
古くから港町で地域の皆さまに愛され慣れ親しまれた「行商」
そのスタイルで長年やってまいりましたが、時代の流れと共に顧客の減少・魚離れ・スーパーの進出による競争の激化にともない、このままのスタイルで営業を続けていくことが難しくなってきました。
20年以上前、一番多かった時にくらべ、魚屋の数は半分以下に。また後継者不足により、今後さらに件数は少なくなることが予想され、「行商」の文化そのものが消えていこうとしている。
そこで、今までの「行商」の概念をより発展させ、ネットを使って全国のお客様ともつながれるよう新たな試みをしてみようと思います。
行商はお客様と長く深いお付き合いを大事にしています。
そんなつながりを全国のみなさまと。
間人の行商人
間人にはかつて、手押し車で鮮魚を売って回る行商人が多くいました。曾祖母もその一人で、行商の商売は父の與昭が継いでいました。
父は丸友鮮魚を屋号として、自動車を使った販売ルートを開拓していましたが、2019年1か月の闘病の末、父は亡くなってしまいました。
当時大阪で働いていましたが、丸友鮮魚をたたむため、父の行商のお客さんたちに報告と訪問して挨拶して回りました。
挨拶に回るとお客さんから思っていた以上に惜しむをあげていただきました。
「父が温かいお客さんたちに支えられていたということを実感して、色々な思いが込み上げてきた」その時に、「やったこともないけれど、鮮魚の仕事をやってみよう」と決意しました。
豊岡市の鮮魚店で半年ほど働いて経験を積み、家業を継いで数年経った今では、仕事の段取りや魚の捌き方も人並みにできるようになりましたが、継いだばかりの頃は作業に時間がかかり、手つきもおぼつきませんでした。
ですが、そんな頃からお客さんに支えていただいて。本当に感謝しています。一番ありがたい存在です。
母娘二人三脚で続ける行商
多くの種類の並ぶ作業場で、お客さんの喜ぶ顔を想像しながら丁寧に魚を捌いていきます。
魚の仕込みが終わると、母と共に行商の準備を整えていきます。
親子二人三脚で、日によっては4時間もかけて、街を周ります。お客さんと色々話をしながら、笑顔でコミュニケーションが取れる行商は、優しさや温かさを感じられる仕事です。
「一番大事なことは、お客さんの喜びです。それがないと、商売はできません。儲けよりも、美味しいと喜んでもらうことを大切にしたい」
創業時より大事にしてきた行商。
人と人とのつながりを何よりも大事にしてまいりました。
わたしの作った美味しい魚をずっとお付き合いさせていただいているお客様の元へ
不定期で販売しています。
こだわりのお刺身や干物、鮮魚加工品など、日本一の行商を目指してやっています。
メディア掲載
ありがたいことに、丸友鮮魚の想いを、多くのメディアに取り上げていただきました。
“生い立ち”
1990年京都府・丹後町間人に魚屋の一人娘として生まれる。
幼い頃から絵を描くことが好きで、中学高校と美術部に所属。
京都造形芸術大学・洋画コースに進学するも、周りのレベルの高さに現実を知り、授業への出席回数も徐々に減ってゆき、落ちこぼれる。そんなとき京大のインカレ登山サークルに興味がわき入部。在学中は登山にのめり込んだ。
就職活動は時代的に、就職氷河期ということもあり厳しかった。特にやりたいこと・目指すものも見つからず一つも内定がないまま大学卒業をした。
第二新卒として、やっとの思いで入社した大阪の花屋さん。お花が好きだから・美術で培ったセンスが活かせると思ったから。しかし配属はまさかの営業部。アレンジメントや会場装花で活躍できると思ったら180度希望から変わってしまった。
しかし今思えばこれが私の社会人生活のすべての基本・根幹を叩き込まれたところだった。
ビジネスマナーや営業としての顧客への接し方・会話の進め方・提案、いろいろなものを教わった。今でもずっと付き合いのある友達も数多く出来た。対人関係や仕事がうまくいかなくて悩んだことも多かったが、それ以上に切磋琢磨した良い仲間に巡り合えた。
そんななか、自分のキャリアにおいて、次のステップアップを考え・転職。
“転機”
壁紙や障子紙などを取り扱うメーカーの営業として働いていた。ここでも仲間にとても恵まれたのだと思う。営業としてはずっとパッとしない人生だったのだが、人には恵まれた。自分で自分を分析すると、敵もつくるが味方もたくさん作るタイプなのだと思う。
大学時代から始めた登山は社会人になっても山岳会に所属し、続けた。よりハードな、積雪期の登山や、クライミング・沢登りなどハードなことにも挑戦した。年間休日126日+有給で、いかに色んな山へ行くか。遊びに行くか。それがとても大事で、とても充実していた。
前職の花屋さんで4年半勤め・この会社で働きだして2年半が経った2019年夏、わたしの人生が大きく変わった。
父が急に倒れた。
当時の会社の上司の計らいで、実家に帰らせてもらい、すぐに病院へ駆けつけた。
その時は元気そうで安堵したのもつかの間。容態は急変し、大きな専門病院へ転院し手術。一刻を争った。それから約1か月間、母と毎日病院へ見舞いの日々。容態が芳しくないので会える時間はごくわずか。予断を許さない状況ではあったが、それでも徐々に良くなっていく父の姿を見ると嬉しかった。
だが、願いは叶わなかった。父は約1か月の闘病の末、帰らぬ人となった。
会社はずっと休職させてもらっていたが、辞めることを決意。
葬儀や四十九日の法要、各所へのあいさつ・事務的なさまざまな手続き。
やっぱり母を一人残してはおけなかった。
“決断”
一人娘の私の決断。
家業を継ごう。
“家業”
家業は魚屋としているが、正確には「行商」の魚屋さん。
行商とは車に商品を積んで売り歩く商売のこと。
うちの場合は小売店舗がなく、作業場のみ。父と母が協力して商いをしてきた。
間人漁港で魚を競りにて買い付け、それを調理加工する。そして車に積み込み昔ながらの馴染みのお客様のところに売っていく。
行商は大昔からあるスタイルの商売だ。丸友鮮魚は曾祖母の代から60年以上に渡って続いている行商の鮮魚店である。曾祖母が旧・加悦鉄道で与謝野町まで、魚を背負って乗っていった。駅を降りると手押し車が置いてあり、それに魚を載せ替えて売り歩いた。
海のない街で且つ、当時とても景気の良かった町を商いの地に選び、お客様に親しまれてきた曾祖母の商才。それを受け継いだのが父だった。
海のない街で且つ、当時とても景気の良かった町を商いの地に選び、お客様に親しまれてきた曾祖母の商才。それを受け継いだのが父だった。
丸のままの生魚を量り売りで売っていた曾祖母の時代をより進化させたのは父だった。
刺身や干物など、ひと手間加えたものをメインに売るように。女性が炊事場で1日3食、たくさんの家族の分の食事を任されていた時代から、女性が働きに出かけ、社会進出していく時代へと変化したからだ。生の魚を捌く暇や手間がさけないお客様のために、あらかじめ加工していく。父がこの町で受け入れられてきたのは魚が美味しかったことはもちろん、父の人間性で多くのお客様から愛されていたように思う。
行商はただ売って終わりの関係ではなく、1件1件お客様の家の前に車を停めてお声がけ。販売させてもらう。その人の家族関係や家の中の様子まで見えてしまう。信頼関係がないと、続かないこと。そうして受け入れられてきたから何十年もの間この地で商売させてもらえたのだろう。
“伝える”
父が亡くなったことを、母と2人でお客様の元へ1件1件伝えてまわった。
父が闘病している間もとても多くのお客様が心配してくれていた。
みんな悲しんでいた。そして私たち母娘にも行商も続けて欲しいと口を揃えておっしゃられていた。
私の決断がより強固なものになっていった。
“覚悟”
わたしたち母娘は魚が捌けない。
魚が出来ないと話にならない。
わたしは母にも誰にも内緒で魚屋の修行先を探した。
そして兵庫県・城崎の大手鮮魚店に内情を話し理解を得て、内定をもらった。住み込みで2019年11月から。魚屋が1年で最も忙しいカニシーズンの始まりからだ。
内定をもらって事が決まった後に母には伝えた。
“修行”
魚屋はやはり男性社会で、慣れない肉体労働で、自分の仕事の出来なさに毎日葛藤し苦しんだ。周りのスタッフや経営者の方々にとても手厚く優しく手ほどきを受ける日々。
カニシーズンで忙しいのに、出来ない自分がお荷物で本当に情けなかった。
津居山漁港のカニの競りにはほぼ毎回同行させてほしいと自分から直訴した。
カニが魚屋にとって一番の要であり店の命運を分ける要素であると分かっていたからだ。
競りでの手の出し方・相場感覚・カニの目利き、全てがとても勉強になった。
包丁の使い方、魚の捌き、知識、魚屋としての心構え。全ての魚屋としての基礎はここで教わった。最後は自分の心が折れてしまい、約半年間の修行となってしまったが、本当に感謝してもしきれないほどありがたいと感じる。今の自分があるのは全部この期間があるからだ。
“丸友鮮魚の再スタート”
2020年3月。約半年間の修行を終えて家業を継ぐことを決意し間人の実家へ出戻り。
母と娘の2人体制での、丸友鮮魚の再スタートを切った。
私が競りに立ち、魚を買い付け、調理加工し、母が行商で販売する。
干物・刺身・茹でガニ…ありとあらゆることに挑戦し、最初は下手ながらも徐々に回数を重ねるごとに上達していき、お客様の反応が良くなることが何よりも嬉しい。
たくさんの困難や壁にぶつかったり、自分の技術の足りなさに涙したりしたこともあったが日々成長を感じる。
そして自営業で魚屋をやってみて分かった。自分にはこれが向いている!天職だ!
「丸友鮮魚にかける想い」
跡を継ぐと決めた時、実は1年だけやって辞めて、大阪に戻ろうと思っていた。
高校を卒業してずっと都会生活が長く、友達も恋愛も全て置いてきた。
30歳になり、自分の人生を考えることが多かったからだ。
再スタートした2020年は前代未聞のコロナ禍へと突入した年だった。
そうしたこともあって1年以上、魚屋をやっていた。
その間、人生でこれまでにないくらい何かに没頭した。
それが魚だった。
気付いたら都会への執着はなくなっていた。今は交通の便も発達していて、高速で3時間あれば着くし、バスや電車も便利がいい。遊びに行きたいときはいつでも行ける。
それよりもこの仕事を辞めるなんて選択肢は次第になくなっていった。
魚屋が面白すぎた。今まで年間休日や有休を使って登山に行くことが楽しかった自分が、仕事が趣味になるなんて想像もつかなかった。
わたしたち魚屋は魚に合わせて休みをとる。年間休日は前職の半分以下。
朝は早いし夜は遅い。日曜だって競りがあれば行くし、繁忙期は鬼のように働く。
魚屋になってから今日に至るまで、体力的にはきついときもあるが、それでも楽しさが勝っている。
お客様からの「すごく美味しかった」の声や「もっと売りに来てほしい」、「すごく頑張ってるね」などの言葉がとても励みになるし、母も私も元気の源になっている。
勿論ときには辛辣な意見をいただくときもあるが、関係性は変わらない。ずっとのお付き合いが出来るこの商売に誇りと感謝を持っている。
曾祖母から、父へ、そして父と母が紡いできたこの歴史を絶やさないようにずっと人生をかけて丸友鮮魚を続けていきたい。
「魚にかける想い」
家が魚屋なこともあり、幼い頃から魚はよく食べていた。今思えばこの時に、たくさんの新鮮で美味しい魚によって味覚が発達し、舌が肥えた。
魚の味の違いがわかることも、魚屋にとって重要な技術である。
ただ、魚を捌いたり、見ても名前が分からない。味だけわかるまま大人へと育った。
この仕事を始めてから昔よりもっと魚を食べるようになった。というかすごく好きになった。より美味しくするにはどうしたらいいだろう。今日の干物は塩があまかったかな?とか毎日が勉強と反省。
自分が美味しいと思うものはお客様に堂々と勧められるからだ。
日々修行の精神を忘れず、魚と向き合う。
毎日さまざまな魚との出会いがあり、毎日色んな発見がある。
誰かの受け売りなのかもしれないけど、こう思う。
「魚には“力”がある」
さっきまで生きていた魚を自分の手で〆て、捌く。
命をいただいているわけだから、無駄にせず、美味しくいただきたい。
そのエネルギーを、召し上がる皆さんと共有できると思っています。
魚には多くの体に良いとされる栄養が詰まっていることはもちろん
季節によって変化する魚種、同じ魚でも味や見た目が変化する。魚で季節が感じられるものだと思っています。
「地元には力がある」
わたしがここまで丹後の魚を好きな理由は、これに尽きる。
この丹後の地に生まれ丹後の魚を食べて育ってきた。
丹後の海や山の立地条件、日本海に面し、海流がぶつかるところで――など科学的な美味しいポイントも数多くある。実際日本海の冷たい海水や荒波によって身が引き締まって、旨味が多いことは勿論だが、この地元にはいろんな想いや魅力がたっぷり詰まっている。
だからこそ全国に魅力を発信していきたい。わたしは、日本一の美味しいカニや魚の獲れる海だと思っています。
現代の日本において、魚離れ顕著に進んでおり、肉食志向・脂志向がある。
魚を食べる機会においても、回転ずしなどで、年中通して提供される養殖魚や外国の魚など口にする機会が増えている。決してこれらの魚を否定しないが、日本は海で囲まれており、各地で水揚げされる美味しい魚・旬の魚がある。
地球温暖化による海面温度の上昇が著しく、本来獲れるものが獲れなくなっている。
日本海では見かけないような南国の魚が多々網にかかるようになってきた。
環境変化と漁獲量の減少。物価の高騰。さまざまな試練と向き合いながらも、地元・丹後間人の魚の魅力を発信していきたい。
ネットの力を借りて、全国の皆さんと共有し、美味しいわたしのつくった魚をぜひ召し上がっていただきたいです。