2021年1月3日京都新聞にて取材掲載されました!
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父が歩んだ証を残したい
秋晴れの澄んだ青い空。
与謝野町の民家の軒先に止まるミニバンに柔らかな日差しが注ぐ。
間人の港から届けた鮮魚と刺し身を下岡千恵子さん(30)=京丹後市丹後町=が手際よく包む。見守る母有佳子さん(59)と客の老夫婦のまなざしが温かい。
曾祖母から続く50年来の客の思い出話に、亡き父輿昭(ともあき)さんの広い背中を見る。
「まちに寄り添い愛されていた父が誇らしい。ただの行商なのに家族のように近い存在だったなんて」
千恵子さんは昨春、行商の鮮魚店を継いだ。友を囲むマル。
誰もが親しめるようにと願って父が名付けた「丸友鮮魚」の屋号に思いを重ねる。
「優しかった父が歩んだ証しを残したい」
2019年夏。
暑い盛りだった。
「競りで一から買いそろえな」と、休み明けの変わらぬ朝を送る父が突然、脳梗塞で倒れた。
一人っ子の千恵子さんも勤め先の会社を休んで大阪から駆けつけた。
毎日のように母と看病するも一か月後、体調が急変した父は息を引き取った。
悲しみを胸に、父が魚を売り歩いた与謝野町三河内を集金で訪ねた。
なじみの客から聞かされる父は、家で見てきた仕事一徹の顔とは違った。
みんなから「兄さん、兄さん」と親しまれ、温かく迎え入れてくれる客とともに涙を流した。
「行商はわしの代で終わり」
と、父は生前、店を畳む準備をしていた。都会に出た千恵子さんもそれを自然と受け入れていたが、客と過ごしたひとときが心を揺らした。
思春期には父と衝突もした。
「もっと分かり合えたら違ったんじゃないか」
売り子だけをしてきた母を一人にしていいのか。
「このまま潰れていくのは嫌。辞めたらあかん」。
この地で生きる決意を母に伝えた。都会で築いた仕事のつながりや友を振り切って。
29歳。
当時は魚の名前も知らない。もちろん包丁仕事もできない。
兵庫県の水産会社の寮に飛び込み、不安を拭うように半年間、必死に仕事を覚えた。
競りを終えた夕暮れ。冬の荒波から身を寄せ合うように家がひしめく漁師町の一角で、千恵子さんが父の包丁で鯖をさばく。そばで干物を作る母は今でも思い悩む。
「この娘の人生は本当にこれでよかったんだろうか」
でも、千恵子さんに迷いはない。
「今は仕事が面白い。腹の底から言えるのは、魚を扱っていきていきたいということ。自分が今、一番輝いていると思うから」
<片村有宏>
この仕事で、このまちで、生きていく。2021年の決意も新たに。
自ら選んだ職で地道に働き、家族や仲間に支えられながら、真摯に仕事と向き合う府北部の人たちの思いを伝える。
残された包丁思い継ぐ
父が残した刃渡り30センチを超える刺し身包丁や出刃包丁を振るう。
「使いこなすのは難しいけれど、やっぱりお父さんの包丁だから使ってあげたい」
「道具だけ一人前なのは恥ずかしいから」
と修行には持って行かず、メンテナンスのために業者に出した。
帰ってくると、ぼろぼろだった包丁が新品同様にきれいになっていてうれしかったという。
まな板や流しを今冬新調し、魚の干し場も広げた。
徐々に「自分の城」に改良する仕事場で、父が聞いていたラジオは今も同じ場所につるしたまま。
潮風でさびても変わらぬ音を響かせている。